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あるいはわたしの自由研究
蜘蛛の話【 Ⅰ 】


   蜘蛛の話



 祖母の田舎ですごした数日間が、今でもふと鮮明によみがえることがある。

 あのときわたしは小学三年生だった。

 暑い、夏の日のことだった。

 家から砂利道をすこし歩くと牧草地があり、青い草原がどこまでも広がっていた。背景にはこんもりと茂る原生林、さらに遠くにつらなる山並み。あおむけに寝転がると草いきれの匂いがした。太陽はまぶしく、ミンミンゼミはけたたましい。

「自由研究、どうしようかなあ……」

 指先でシロツメクサをもてあそびながら、わたしは確かそんなことを考えていたと思う。

 たとえばこうした草花を調べて、植生調査のまねごとをやるというアイディアは前から思いついていた。

 ここは田舎も田舎だ。ほかには何も無くたって自然だけはある。そのあたりに無造作に生えている花だけでも、都会では見られないようなものが数え切れないほどあった。

 写真をとって場所をメモ。帰ってから植物図鑑とにらめっこをして名前と特徴をリストにまとめる。余裕があったら見つけた場所を地図にプロットして分布図にする。それだけでそこそこ見られるものができそうだった。綺麗な花は押し花にしてクラスで配ってもいい。先生に受けそうなお題、クラスメイトにも受けそうなお土産。うん、悪くない。

 ――ただ、問題は、

「たぶん、つまんないだろーなぁ……」

 わたしの興味がまったく掻きたてられないことだった。

 そもそも自由研究を本当に興味をもってやる人なんていない。少なくともわたしの周りではそうだったし、どこでもそんなもので大差はないと思う。

 適当にさっさと済ませてしまうのが賢い。

 そうと知ってはいても、興味の湧かないことはできればやりたくない。それならやりたいことは何だろうと考えているうちに期限は間近、慌ててやりたくないもないことを間に合わせでやる。それがわたしのいつものパターンだった。たぶん今回もそうなる気がしていた。

「だから! わたしは、駄目なんだっ! うー、あぁー」

 あたりに誰もいないのをいいことに、牧草の上をごろごろのたうちまわって空に叫ぶ。

 だからといってどうなるわけでもない。

「はぁ、かえろう……」

 たりたりと起きあがり歩きだした。

 歩きながらスカートに貼りついた枯れ草をはらう。

 草に触れていたせいでふとももがチクチク感じる。寝転がっているときは意識しなかったのに、気になりだすと止まらなかった。手のひらをもぞもぞと擦りつけるようにして掻く。

 掻きだすと今度は下腹のあたりがむずむずしてきた。

 そういえばこの半日トイレに行っていなかったことを思い出す。大きいほうではないらしいのが不幸中の幸いだった。家まではもちそうにない気がした。わたしは道をはずれて草むらに分け入る。

 そこに、ちょうどあつらえたようなひとりぶんの空間を見つけた。

 足下にはひとまたぎで越えられそうな細い小川が流れている。あたりには自分より背丈のあるイタドリやトリアシショウマがそびえている。なんだかコロボックルになった気分だった。隠れるにはもってこいだと思った。

 周りに誰もいないことを確認してから、スカートをたくしあげてしゃがむ。外でするのははじめてのことだった。

 そして下着に指をかけた、その時。

「……ひっ?」

 誰かと、いや何かと目があった。相手の眼は八個もあった。びっくりしてあやうく漏らしそうになった。正確には二、三滴はフライングしていたと思う。

 それは蜘蛛だった。

 親指の先くらいの大きさで、黄色と黒の縞模様が腹と脚の両方にある。

 脚は細くしっかりしていて、毛がもぞもぞした感じはなく表面はさらりとしている。

 イタドリとイタドリの間で日の光を反射してかすかにきらりと光る銀の糸。

 大きな円網の真ん中に、その蜘蛛はひっそりと鎮座していた。

 ――ああ、綺麗だ。

 と、わたしは思った。

 けれど、この蜘蛛に見つめられながらするのは何だか厭な気分がした。といって、ほかの場所を見つけるまで我慢もしたくなかった。

 このとき、なぜそうしようと決心したのかは今でもよくわからない。とにかくわたしはその場で立ちあがった。そのままショーツをおろす。つまり『男子と同じ格好』でしようと考えたのだった。

 そして一歩横にずれる。これで、あいつ――蜘蛛を目の前にしなくて済む。

「んっ……」

 力をこめる。

 しびれるような開放感。飛沫が川面にぱしゃぱしゃとしたたり落ちる。

 ほう、と息を吐いた。

 溜めこんでいたせいか勢いはなかなかおとろえない。

 何しろはじめてのことだから、出始めてからも緊張はとけないままだった。誰もいないのは確認したのに、どこかから見られているような気がしてならない。念のため前後左右を見まわしても、やっぱり誰の姿も気配もなかった。

 ふと、下に視線をやる。

 ――あれ?

 わたしは違和感をおぼえた。

 蜘蛛がいない。

 蜘蛛の巣の中心にあいつの姿がない。

 銀の糸は飛び散った飛沫がわずかに当たってふるふると震えている。

 そのときようやく気づいた。巣の端っこ、わたしの飛沫が当たっているその場所に、じっとシャワーでも浴びるかのように、黄色と黒の縞をしたあの蜘蛛がとまっていたことに。

「え、えっ」

 思わず腰をひねり、飛沫が巣に当たらないように避ける。

 すると蜘蛛は、ゆっくりと縦糸をつたい巣の真ん中へ引き返していった。

 ――今のはいったい何だったのだろう。

 すこし怖くもあった。けれど好奇心がまさった。

 わたしはおそるおそる腰を戻すと、さっきと同じところに飛沫が当たるようにした。

 瞬間、蜘蛛はものすごい勢いで巣の上を移動して、やはり同じように飛沫を浴びるところでとまった。

 ――ぞくり。

 何が起きているのかよくわからなかった。

 けれどなぜか、わたしはぞくぞくと背筋を這う奇妙な感覚をおぼえていた。

 まもなく水流はちょろちょろと細くなり、やがて完全にとまった。それとともに、蜘蛛もまたのそのそと円網の中心へと戻ってゆく。向かうときのびっくりするような素早さにくらべてあまりに遅い。なんだか見ていて哀愁さえ感じるほどだ。

 不意に頭にひらめくものがあった。

「……そうか。こいつ、えさが掛かったと勘違いしたんだ……!」

 蜘蛛のえさは蝶や羽虫である。蜘蛛の巣にひっかかればばたばたと羽をふるわせて暴れる。その振動が糸をつたわり、蜘蛛は獲物が掛かったことを知る。そして獲物をつかまえに飛び出してゆく。

 だからわたしの飛沫で糸がふるえたのを、この蜘蛛は獲物がまんまとひっかかったものと思いこんだのだ。

 よくよく考えてみたら当たり前のようなことだった。けれどその時のわたしにとって、それは天啓にさえ感じた。

 なぜといって、――『やりたいこと』がたった今見つかったからだった。

 その夜、わたしは食卓で母に言った。

「……あのね、わたし、自由研究で蜘蛛の観察をしようって決めたの」

 こうして、わたしのめくるめく研究の日々がはじまった。